今日の朝一番で父母から泣きながら電話があり、「弟(私の叔父)がなくなった。」と。親族で一番の出世者と母の自慢の弟でした。長年の闘病生活の傍ら、専門書の翻訳に積極的に取り組み”現役を離れても未だエンジニア”のあるべき姿勢を見せて下さいました。勿論、私が幼かった頃から憧れた存在でもあります。今こうしてインターネットを介し、テキストや画像を簡単に掲載する基礎を築いた1人であり、50年も前から電算の荒野を開拓し、パンチングシートや磁気テープを使いハードウエアとソフトウエアを開発、後にスティーブウォズニアックやスティーブジョブス、ビルゲイツ等のスキルを身につけるきっかけとなったパーソナルコンピューターも叔父の居た会社の製品で、今は無きデジタルでした。デジタル社の日本事務所設立が私の生まれた年1968年。その創業メンバー7名の内の1人が亡くなった私の叔父。パーソナルコンピューターがまだ無い時代、私が子供の頃に知るコンピューターはバビルの塔内に有る巨大な機械(アニメバビル2世)でありコンピューターイコール”何だか解らないけど凄い!格好いい!”の対象で、叔父のコンピューターの仕事も”超格好いい”と。バビル2世のコンピューター認識の次に私が本格的にコンピューターを意識したのが1982年の映画TRON(TRON1)で、作り話と解っていても、叔父の仕事の先にある出来事だと中学生時代に確信していました。この頃既に社内では電子メールが使えていたそうな、、その後叔父は本部長に就任、日本国内にそれ以上のポストが無かったのか?いよいよニューヨークへ栄転、、と言う矢先に病気で引退。直後9.11テロで勤務予定地のツインタワー崩壊。「同僚が何人も一瞬で命を失った、、。」と、後で聞きました。もっと話を聞きたかった。創成期からの仕事、AI、AISO存在の可能性、、全て聞けずに逝ってしまった。”自分で見極め、確かめろ。”と言う意味かもしれません。今は孤独なデジタルフロンティアを歩んだ叔父に、心から感謝と敬意を。長くなりましたが画像のワーゲンゴルフ、確かパイクスピークスヒルクライムのスペシャルマシンでツインエンジンだったと思います。スポンサーがスモールブルー(IBMがビッグブルーと呼ばれ、その対抗で命名)ロゴが輝かしいデジタル。もちろんこの話も聞けず仕舞いでしたが、デジタルとワーゲンを繋ぐ唯一のキーマンが私の知人”ジャーナリストの生方さん”。生方さんとはヘクトパスカル(VW専門誌ブリーズ編集部)時代からの知り合いで、前職がデジタル池袋サンシャイン勤務だったそうで、これも何かのご縁だと思いますし、最近ヒルクライムのツインエンジンゴルフもレストーションが完了したらしく、何時かマシンを取材しつつ、当時のデジタルにもフォーカスして頂ければ嬉しいです。 日々精進